日笠山 / higasayama

蚊学 -tribute-

今年のイグ・ノーベル文学賞を受賞したのは、蚊です。

いくつか見出しの案を受けていたが、選ばれたのはその一行だったらしい。私は蚊の研究者で、八年前、蚊に声を与えた。血を吸うときに一言「すいません」と言ったり、それとは逆に礼を言ってきたり。そういうことがあると、人と蚊の間にコミュニケーションが生まれる。コミュニケーションが生まれると、むやみやたらに命がやり取りされることがなくなる。

蚊の語彙は年々増えてきて、八年後の今。ついに文学賞を受賞するレベルに達した。蚊は一言二言ではなく、何かを無作為に語・る・ようになり、興味深いことを語る蚊は捕獲され、展示されるようになった。

今年イグ・ノーベル文学賞を受賞したのは、兵庫の科学館で展示されていた蚊のヘルメスだった。彼の声・はよく通り、内容も雄弁であったため、彼の展示コーナーには常に人だかりができていた。発言はやがてSNSで噂となり、国営放送に取り上げられ、世界でも話題となった。内容をまとめた本が出版され、学者が内容を考察し論文を執筆した。

ヘルメスの生みの親である私からしてみれば肩腹が痛い。蚊に声帯はなく、内容にも意味はない。人に殺されない語彙を偶然持った蚊が増えているだけ。蚊という漢字には文と入っている。その虫が遂に文学で賞をとった。意味のない文が、人間の解釈によって。これが笑わずいられるか。

では、ヘルメスは何を語ったのか。皆が知る限り、第一声はこうだった。「あるいはそうなのかもしれない。私が求めることと、あなたが求めること」

求める、という言葉は書籍で漢字にされているが、ヘルメスは本当の意味で「求める」という単語を用いているわけではない。

「生きている人は長く、死んだ人は短い。見えていることは広く、眠っているときは狭い」最初の二行で、ヘルメスは対句を用いた。適度な抽象性を含んでおり、読者の想像力を喚起する。ヘルメスはどんな経緯で対句という技巧・・を覚えたのか。そして、なぜ発する言葉に抽象性を持たせることができたのか。

「みんなで踊ろう。つき。はる。いし。はね。かぜ。みち……旅するあなた。旅していたあなた。旅をしようとするあなた。旅をかんがえるあなた……」

様々な単語を発する蚊は既に存在する。様々な文を発する蚊も同様に。ただ、文を発する蚊と、単語を発する蚊はそれぞれ別に存在するものであって、両方を発する個体は希少だった。

特に問題の多かったのは次の一文である。「二〇三〇年。やってくる事に気をつけないと。何かを忘れてしまう前にね。才能があることは素晴らしいね。まるで才能がないことのように、みんなから愛されるね」宗教家は歓喜した。祭壇が揺れた。

タレントに張りつく週刊誌やオカルト雑誌の編集部も、手を叩いて喜んだ。これだけで一年は食っていけるどころか、その後だって予言の解釈だけで飯の種になる。

二〇三〇年には何かが、おそらくアクシデントが起きる。才能を持った誰かに、災難が降りかかる。伝達の神の名を冠した蚊の言葉とあっては説得力があった。私にもその年、自宅までインタビューが殺到した。

「蚊に●■✖さんが意図的に文を刷り込んだのでは?」「あんな文を偶然発しますか?」「博士は一体何を企てているんですか? 秘密結社との繋がりも噂されていますが」

私はこう答えた。「さぁ」たったそれだけの、ヘルメスより少ない口数だった。その年は例年に漏れず――たかが蚊一匹が話題になるほどの年だから――平和に過ぎていった。

SNSを通して蚊の予言をみた、紛争地帯の誰か。ドラッグが効くまでの暇つぶしに、その噂を知った彼ら。たかが蚊一匹に莫大な費用がついやされていることを知った、保健所の職員。そういう種類のあらゆる人が、このニュースから、ヒトという種の嫌な歪みを感じとったのは言うまでもない。話せる蚊は、難民より、貧民より、猫より重宝される。

無論どうでもいい。大多数の人間にとって、そういうやるせなさは常日頃から満ちている。蚊が話す前から、手話をするゴリラや占いをするタコは大切にされてきた。麻薬を嗅ぎつける犬も、気の利く猿も、絵を描く象も、寄り添ってくる鯨も……特異な種が、見向きもされない個体を生んできた……。

予言以降のヘルメスの文を続けよう。予言から新たな語彙を発するまで、ヘルメスは二年の時を要した。

「そのほか、関係する道具をあつめましょう。交差する枝と、交差する生地と、よく慣れたことで進んでいきましょう。髪に手ぐしを通すように。髪に手ぐしを通すように」

ちなみに、ヘルメスの発声を文字に起こし、漢字などを割り当てたのは私である。文学研究者や生物学の権威がこぞって連絡をとってきたが、そもそもこれは文学ではない――人間が勝手にそう思っているだけに過ぎない――し、どこぞの権威などより蚊学の第一人者である私のほうが、はるかにヘルメスの意図・・をくんでやれる。「生地」は「記事」だったかもしれないし、「慣れた」は「馴れた」だったかもしれない。

文学者ならその選択に何年もかけるだろう。正解など無いのに、前例などないのに、いらない論文を引いてきて、いらない小説を引いてきて、最後にはアルファベット表記にした方がよいのではないかと言いだす。

私はある対談で。「そういうガリ勉と比べるとまだヘルメスのほうが賢い。漢字だろうが、ひらがなだろうが、カタカナだろうが、英語だろうが、何で書いても大本に意味がないことは変わらない。それを忘れて解釈の力を強引に加えていくと、いつかヘルメスは戦争さえ引き起こすようになる。私はそれすらどうでもいいが、戦争の原因を押しつけられて私の研究が邪魔されることは絶対に避けたい」

「ヘルメス以外の蚊が、既に多くの問題を引き起こしている可能性については、どうお考えで?」「ノーベルと同じ気分です。ダイナマイトを作って、その効果を『殺傷』だと解釈する連中がいる。多分、あらゆる道具は、あらゆる発明は、最終的に武器として解釈されうる。逆もあるでしょうがね。ただやはり、私だけが謗そしられるいわれはない」

「いや、ダイナマイトなどの道具は、ルールや倫理によって使用を制限できます」「私が制限できない武器を国にばら撒いたと?」「言葉は情報です。好きなように解釈できる抽象的な情報を無作為にまき散らす蚊は、特にヘルメスは、危険だと思われます」「それは情報の受け手の問題だな。ゴリラが中指を立ててきたとする。それに激昂した人間がゴリラを枝で突き、反撃に遭って殺されたとする。ゴリラの中指に実は何の意味もなくて、人間が勘違いで自滅した。それと一緒だよ。蚊の言葉を勝手に解釈し、勝手に動き、勝手に殺し合い、勝手に死ぬ。怪我をする。事故を起こす」

「言葉は、ゴリラの中指とはワケが違いますよ。挑発以上の意味を持ちすぎる。ヘルメスほど長い文を使えばなおさらです。言葉は仕事を生み、仕事はお金を動かします。お金が動けば上下が生まれ、上下が生まれると競争になる。競争は文字通り争いを――」「蚊の冗談で死ぬヤツは蚊がいなくても適当なタイミングで淘汰されますよ。ゴリラに中指を立てられて死ぬヤツも、遅かれ早かれ別の簡単な理由で死ぬ。人間も自然の一部である以上、自然淘汰は避けられない。『ゴリラと喧嘩をしない』とか『肉は火を通して食べる』とか、原始時代から人間が本能で知ってるようなことを知らずに死ぬヤツはそこまでの個体なんです」

「どんな人でも生きられるようにするのが社会の役割では?」「ほんの昔まで本気で黒人を人間扱いすべきか議論してた、それが人間のレベルです。議論を尽くそうがルールで守ろうが、高所に柵をつくろうが教育しようが、死ぬヤツは死ぬ。生きるヤツはどんな目に遭おうがしぶとく生きる」「だからといって、いや、しかしですね」「不安定な世の中で共通の敵をつくりたい気持ちもあるんでしょう。誰かのせいにして安心したい。黒幕の正体を突き止めれば、それを仕留めて明るい気持ちになれる。私は媚びない人間ですから、吊るし上げても罪悪感がないんだろうな」

その後は、もう対談の体を成さなかった――。

あるいはそうなのかもしれない。私が求めることと、あなたが求めること。生きている人は長く、死んだ人は短い。見えていることは広く、眠っているときは狭い。みんなで踊ろう。つき。はる。いし。はね。かぜ。みち……。旅するあなた。旅していたあなた。旅をしようとするあなた。旅をかんがえるあなた……。二〇三〇年。やってくる事に気をつけないと。何かを忘れてしまう前にね。才能があることは素晴らしいね。まるで才能がないことのように、みんなから愛されるね。そのほか、関係する道具をあつめましょう。交差する枝と、交差する生地と、よく慣れたことで進んでいきましょう。髪に手ぐしを通すように。髪に手ぐしを通すように。

次が最後の一文になる。「とてもよく分かったことがあるので、あとで教えますから」ヘルメスは今年、この言葉を遺して仰向けになった。彼が神格化されてしまったことは言うまでもない。ヘルメスは、人間以外でで遺言・・を残した初めての生き物となった。 彼の死に伴い、日本の各所で二二件の自殺未遂が発生。加えて三件の自殺行為で死亡が確認され、遺書にヘルメスについての言及がみられた。遺族から私に向けた訴訟が相次ぎ、私は勝訴したが、社会と私を隔てる溝は、これを機に深まってしまったように思う。溝の淵から見下ろして、その暗さに辟易とする。つくづく度し難い人間の面倒さ。面倒は人を殺す。 「今年、蚊のヘルメスがイグノーベル文学賞を受賞しましたが、率直な感想をいただけますか」と、自宅へやって来た記者は訊ねてきた。 「どうでもいい」と、そう答えたのはそばを飛んでいた蚊だった。 私はほほえむだけでよかった。 玄関の扉をそっと閉めて、その後のことはあまり知らない。