一本の虫歯が原因だった。
夜中まで練習した日や朝まで飲んだ日は、歯を磨くのが面倒で、代表戦が近づくほどサボるようになった。
「虫歯のせいで負けました」なんて、口がさけても言えない。
ただ、試合の一週間前に奥歯を抜いたことで、思いきり歯を食いしばることができなくなった。身体がうまく力めないことに俺は危機感を覚えたが、試合が近づくにつれ、そんなことはどうでもよくなっていった。
日本開催のラグビーW杯。あの年、俺も代表だった。
晴天にブルーインパルスが飛んでいたことは、後になって聞かされた。
それが起きたのは、俺たち対ニュージーランドの後半。スコアはたしかこっちが十六で、相手が二十六。受けたタックルは、渾身ってほどじゃなかった。
いつもなら押し返して耐えるところを、思ったとおりに踏ん張れなかった。あれが奥歯のせいだったのか、疲労のせいだったのか、今となっては確かめようがない。ただ、それまでの俺なら耐えていた。
イレギュラーで崩れた姿勢。
俺の右ひざに半端じゃない重さがのしかかり、膝を明後日の方へ曲げたまま仰向けに倒れた。
俺を倒した相手の予想外な顔と、近くにいた誰かの呆気にとられた「え」という声は、忘れたくても忘れられない。
あの試合。
俺を根本から変えてしまった試合。
フィールドの芝は熱かった。
青い空を仰いだまま。
起き上がりもせず、俺は二十年プレイし続けたラグビーで初めてこう思った。
「もう帰らせてくれ」、と。
俺の右膝が壊れる音は、心の折れる音だったのかもしれない。
第1話へ続く
やさしい日本語
すべての始まりは、1本の虫歯だった。
夜中まで練習した日や、朝まで酒を飲んだ日は、歯をみがくことが面倒だった。日本代表の試合が近くなるほど、歯をみがかない日が増えた。
「虫歯が原因で負けました」。そんなことは、絶対に言えない。
しかし、試合の1週間前、俺は奥の歯を抜いた。そのため、強く歯をかむことができなくなった。体にうまく力を入れることもできなかった。俺は「危ない」と思った。しかし、試合が近くなると、だんだん気にしなくなった。
日本で開かれたラグビーのワールドカップ。その年、俺も日本代表の選手だった。
よく晴れた空を、ブルーインパルスという飛行機のチームが飛んでいた。俺は、そのことをあとで聞いた。
事故が起きたのは、日本とニュージーランドの試合の後半だった。点は、たしか日本が16点で、相手が26点だった。相手のタックルは、力を全部使ったような強いものではなかった。
いつもの俺なら、相手を押し返して、倒れないようにする。しかし、そのときは、思ったように足に力を入れることができなかった。奥歯がなかったからか。疲れていたからか。今は、もう確かめることができない。ただ、前の俺なら、倒れなかった。
予定していなかった動きで、体の形がくずれた。
とても大きな重さが、俺の右のひざにかかった。ひざは、おかしな方向へ曲がった。俺は、体を上に向けて倒れた。
俺を倒した相手は、「こんなことが起きるとは思わなかった」という顔をしていた。近くにいた誰かが、おどろいて「えっ」と言った。その顔と声を、俺は忘れたい。しかし、忘れることができない。
あの試合。
俺のすべてを変えた試合。
グラウンドの草は、熱かった。
俺は、青い空を見たままだった。
立とうともしなかった。20年間続けたラグビーで、初めてこう思った。
「もう、家へ帰らせてくれ」
右のひざがこわれる音は、俺の心がこわれる音だったのかもしれない。
第1話へ続きます。