第3話

 マーカーを等間隔に置いた簡易的なフィールドで、腰からタグをぶらさげた大人たちが練習している。

 その脇で、二人は簡単に、向かい合ってパス回しをはじめる。

「あの人たちは社会人のタグフットチーム。ファルコンズっていって結構強いよー。倒すけど」

 玲はごく自然にパス回しをさせられていることに気がつくが、流れでパスを返す。

「玲クンは、なんか好きなこととかないの」

「ない」

「アニメ? マンガ? ゲーム? 映画? ドラマ? 」パスとともに当てずっぽうの単語をぶつけると、映画、というワードを出したときに、ほんの少しパスの勢いが強くなった気がして、彼女はそこから話を繋げることにする。

「わたしはね、最近あれ観たよ、七人の侍。黒澤明の。ぜんぜん何言ってっか分かんなかったけど」

「……そう」

 玲の顔色が変わる。どこかよそよそしくなり、さっきまで大人しく差しだすようだったパスが、右へ左へそれるようになる。

「映画好きなんだ」

「いんや」

「好きな映画は? 」

「羅生門」

「え、芥川の? 」

「黒澤監督の」

「ゼッタイ誰も知らないって! お父さんに教えてもらったんでしょ」

「いや、自分で見つけた。黒澤作品は大体観たもん」

「ちょっと待って。映画は好き? 」

「いんや」

「うそつき! 」

 彼女は大笑いしながら、それまくる玲のパスをさばく。

「今まで何本くらい観たの? 」

「そんなに観てない。一日二本ぐらい」

「マジか! 」

「……いつか」玲は手元のボールを見つめて。

「いつか撮りたい。映画は」

 さっきまで縮こまっていた、心ここにあらずのような瞳はどこへやら、好きなことを語る少年の目に変わっている。彼女はその目つきを引きだせて高揚した。

「じゃあさ、今までにない題材を扱った映画って、面白くなると思う? 」

「まぁ、それが映画でしょ」

「じゃあさ! 一緒にタグで世界獲って、それを映画にできたら、今までにない作品になるんじゃないかな。ノンフィクションだよ」

 玲は黙ってボールを投げ返すと、ふいっと背を向ける。

「無理。嫌。映画の話は嘘」

とぼとぼと去る、彼の背中が曲がっていく。祈はそれをみて、明るい調子で呼びかけた。

「その嘘、明日も聞かせてよ」

 玲が振り向いた。その目は暗いが、夕日の力で光っている。

「タグフットの魅力、そのいち。ただの散歩じゃ話せないことも、ボールを通せば伝えられる」彼女は人差し指を立てて白い歯をみせた。

「あと、曲がった背中も伸びる! 」

「まだ、タグフットやってないけどね」

 最後に玲がみせた皮肉っぽい微笑みは、この夕日のじんわりとした暖かさになじむように、朗らかなものだった。

 それから一週間のあいだ、帰りに会うと少しだけパス回しをする日が続いた。

 ――その日も、玲は祈に連行され、河川敷でパスを練習させられている。

「玲クンっていま中三でしょー。受験どこ受けんの」

「十里、受けようかなって」

「え! めっちゃ頭良いじゃん」

「いや、今は全然届かないし、好きな映画監督が十里出身だし――」

 祈は、どんどん声の小さくなっていく玲を、強引に励ます。

「絶対応援する! このパス練で疲れて、授業中寝ちゃだめだぞ? 」

 祈が玲をからかうつもりで、少し強めのスクリューパスを出すと、それは頼りない胸板にはねかえって、力なく転がっていった。

「え、あれ。どした」

 祈は転がったボールをあわてて拾うと、玲の顔色をうかがう。

彼は明らかに表情を曇らせていた。祈の頭の中で、その反応と、日ごろの様子と、顔の傷や、病気のことが重なる。確信がない段階で聞くのはやめておこうと思っていた。それでも、さすがに無視できない。

「いじめ? 」

 固まっている玲を見て察した。虐められているというのが事実であったとしても、それを認めるには覚悟がいるのだろう。

 玲は無言で両手をかざした。祈はパスを出す。

「うん。いじめられてる」

 玲の告白は、少し強いパスにのって祈のもとへ返ってきた。あまりにもあっさり玲が打ち明けたことに、祈は驚いた。さらに。

「まだ家族にも言ってない」

「マジ、わたしが最初? 」

「ごめん。重くて」玲はぶっきらぼうに謝る。

「いや、まぁ、いいけども」

 ぎこちないラリーがつづく。

「最後まで学校行くの? 」

「え」

「いや、そもそも。中学ならべつに明日から行かなくなっても大丈夫っしょ。家で勉強できるならそれでよくない? 」

「あ、えぇ」玲は口ごもる。

「中学以外にも居場所、あるよね」

 祈はボールを顔の前に構えると、そこからひょこっと笑顔をのぞかせる。

「……うるさい」

その仕草に照れたのか、玲は早くパスを出せとでも言うように手をかざした。「はいはい」と祈が出してくるパスを受け、玲は呟く。

「許してもらえるかな」

「何を? 」

「学校に行かないの」

「誰の許しがいるの? 」

「お母さんとか、先生とか」

 それから、何回かラリーが続き、決めたように祈は言った。

「ま、無視はできないね」

ことばの説明

社会人(しゃかいじん)
学校を卒業して、仕事をしている大人。
『七人の侍』『羅生門』
黒澤明という日本の映画監督が作った映画。
ノンフィクション
本当にあったことを使って作る作品。
中三(ちゅうさん)
中学校の三年生。
受験(じゅけん)
学校へ入るための試験を受けること。
スクリューパス
ボールを回しながら投げる方法。
いじめ
一人や少ない人に、何度もいやなことや苦しいことをすること。

マーカーを同じ間隔に置いた、簡単なコートがある。そこで、腰からタグを下げた大人たちが練習している。

そのそばで、二人は向かい合い、軽くボールを投げ合い始める。

「あの人たちは、大人のタグフットチームだよ。ファルコンズという名前で、けっこう強い。でも、わたしたちが勝つけどね」

玲は、いつの間にか祈とボールを投げ合っていることに気づく。それでも、そのままボールを返す。

「玲くんは、何か好きなことはないの?」

「ない」

「アニメ? マンガ? ゲーム? 映画? ドラマ?」祈はボールを投げながら、思いついた言葉を言ってみる。「映画」と言ったとき、玲が返したボールが少し強くなったように感じた。祈は、映画の話を続けることにした。

「わたしは最近、『七人の侍』を見たよ。黒澤明の映画。何を言っているのか、ぜんぜん分からなかったけど」

「……そう」

玲の顔が変わった。少し遠慮するようになった。さっきまで静かに渡していたボールも、右や左へ外れるようになった。

「映画が好きなんだ」

「いや」

「好きな映画は?」

「羅生門」

「え、芥川龍之介の小説?」

「黒澤監督の映画」

「絶対、同じ年の人はだれも知らないよ! お父さんに教えてもらったんでしょ」

「いや、自分で見つけた。黒澤監督の映画は、だいたい見たよ」

「ちょっと待って。映画は好きなの?」

「いや」

「うそをついている!」

祈は大きな声で笑いながら、右や左へ外れる玲のボールを受け取る。

「今まで、映画を何本くらい見たの?」

「そんなに見ていない。一日に二本くらい」

「本当?」

「……いつか」玲は、手に持ったボールを見る。

「いつか、映画を撮りたい」

さっきまで玲は、体を小さくして、ほかのことを考えているような目をしていた。しかし今は、好きなことを話す少年の目になっている。祈は、その目を見ることができて、うれしくなった。

「では、今までだれも使わなかったテーマで映画を作ったら、おもしろくなると思う?」

「まあ、それが映画でしょ」

「では、一緒にタグフットで世界一になろうよ。それを映画にしたら、今までにない作品になると思う。本当にあったことを使う映画だよ」

玲は何も言わず、ボールを返した。そして急に、祈に背中を向けた。

「無理。いやだ。映画の話は、うそ」

玲は元気がない様子で歩いていく。玲の背中は、だんだん曲がっていく。祈はそれを見て、明るい声で言った。

「そのうそを、明日も聞かせてよ」

玲が後ろを向いた。その目は暗い。しかし、夕日の光が目に入っている。

「タグフットのいいところ、その一。歩くだけでは話せないことも、ボールを投げ合うと話せる」祈は人差し指を立てて、白い歯を見せた。

「それに、曲がった背中もまっすぐになる!」

「まだ、タグフットはしていないけどね」

最後に玲が見せた、少し相手をからかうような笑顔は、夕日のやさしい暖かさに合う、明るい笑顔だった。

そのあと一週間、二人は帰りに会うと、少しだけボールを投げ合った。

――その日も、玲は祈に連れて行かれ、川のそばでボールを投げる練習をしている。

「玲くんは今、中学三年生でしょ。どの高校を受けるの?」

「十里高校を受けようかな、と思っている」

「えっ! とても頭がいいんだね」

「いや、今の成績では入れない。それに、好きな映画監督が十里高校の卒業生で――」

玲の声は、だんだん小さくなる。祈は強い言い方で玲を元気にする。

「絶対に応援する! この練習で疲れても、授業中に寝てはだめだよ」

祈は玲を少しからかうため、回転する強いボールを投げた。しかし、ボールは玲の細い胸に当たり、弱い力で地面を転がった。

「え、あれ。どうしたの?」

祈は急いでボールを拾い、玲の顔を見た。

玲は、はっきりと暗い顔をしていた。祈は、その反応と、いつもの玲の様子と、顔の傷と、病気のことを一緒に考えた。まだ本当かどうか分からないから、聞かないほうがいいと思っていた。しかし、もう知らないふりはできなかった。

「いじめられているの?」

玲は動かなくなった。祈は、それを見て分かった。いじめられていることが本当でも、自分でそれを認めるためには、強い心が必要なのだろう。

玲は何も言わず、両手を前に出した。祈はボールを投げた。

「うん。いじめられている」

玲の言葉は、少し強いボールと一緒に祈のところへ返ってきた。玲がとても簡単に話したので、祈は驚いた。そして、玲は続けた。

「まだ、家族にも言っていない」

「本当? わたしが初めて聞いた人なの?」

「ごめん。重い話だから」玲は、やさしくない言い方であやまった。

「いや、まあ、いいけど」

二人は、うまく話せないまま、ボールを投げ合い続けた。

「最後まで学校へ行くの?」

「え?」

「中学校なら、明日から行かなくても大丈夫でしょ。家で勉強できるなら、それでいいんじゃない?」

「あ、うん……」玲は、うまく答えられなかった。

「中学校のほかにも、安心していられる場所はあるよね」

祈はボールを顔の前に持った。そして、ボールの後ろから少しだけ笑顔を見せた。

「……うるさい」

玲は、その動きを見て恥ずかしくなったのだろう。早くボールを投げてほしい、と言うように両手を出した。祈が「はいはい」と言って投げたボールを受け取り、玲は小さい声で言った。

「許してもらえるかな」

「何を?」

「学校へ行かないこと」

「だれに許してもらう必要があるの?」

「お母さんや、先生」

そのあと、二人は何回かボールを投げ合った。そして祈は、考えを決めたように言った。

「まあ、お母さんや先生のことを、考えないわけにはいかないね」