第4話

 その週の日曜。

 玲は祈からラインで呼び出され、祈といつもの場所でパス回しをすることになった。いつも隣で練習しているファルコンズの何人かも加わり、玲も最初は緊張していたが、最後には笑顔もみせていた。

「ちょっと待っててね」

 祈はその輪から外れると、離れたベンチにかけてずっとこちらを見ていた、帽子を目深にかぶり、マスクまでした男性のほうへ向かっていく。玲には、その姿にどこか見覚えがあった。

*

 ――清水 浩は、自分がよい教師であると自負していた。

 大学を卒業してから教師一筋。仕事が終わって家に帰れば、その日の授業の反省をノートに記し、休日は教育に関する学術書を読んだり、中学生が読むようなマンガやアニメをみて流行を勉強した。

 彼は人格者であり、そこに年齢や経験がついてくると誰もが彼を慕うようになった。それは生徒も例外ではなかった。

 だからこそ、担任として初めて経験するいじめという地獄は暗かった。

 ある生徒の顔は日に日に暗く、逆にある生徒が異常に愉快な顔をするようになった。その愉快な顔は不愉快で、清水に初めて、生徒を憎む心を芽生えさせた。

 彼は思い知った。

「自分がよい教師でいられたのは、運が良かっただけだったのだ」と。

 教師の力が強い時代も長かった。最近の業務の増えかたは、教師を殺すために何者かの意志が働いているようにさえ思う。

 そして、自問する。

 よい教師のまま逃げるように退職するのか。

 積みあげた教師人生を投げうってでも、この地獄に立ち向かうのか。

 清水は一人の生徒の顔を思い浮かべる。その生徒は、日に日に顔や手に傷をつくり、その原因も語ろうとしない。

 教室は、もう人が育つ場所ではない。

「ならいっそ」と思うほど追いつめられていたある日、清水のもとに一本の電話がかかってくる。

*

「先生。どうでした? 玲クンの様子をご覧になって」

 清水は帽子とマスクをとって、ベンチから立ち上がると、ちいさくお辞儀をした。

「先生――」

 玲は息をのむ。見られたくなかったのか、手にしていたラグビーボールを地面に置いて、手を後ろに組んだ。

「今日はお呼びいただきありがとうございました。菊水さん。水戸嶋君のはつらつとした顔を見ることができて、嬉しかったです」

 清水はあらためて、坊主頭を深々とさげる。玲はきまり悪そうに目を背けた。

「玲クン。言うことがあるなら、今だよ」

 そうは言われても、不安が渦巻いているのだろう。助けを求めるように彼は祈をみるが、彼女は清水のほうを向いている。

 やがて玲は、なんとか、吐くように声をだした。

「あの、学校で、あ、いや、いじめとか、そういうのに近いのが、いや、いじめでは、い、いじめではないんですけど、できれば、できれば保健室、登校とか、そういうこと、が、できたら嬉しいと――」

 祈は、当初の決意と違うことを言っている玲に「違うでしょ」とアイコンタクトを送る。だが、玲は勢いで喋り続ける。

「学校は行かなきゃいけない、ものですし先生にも、お、お、お世話になってますので、学校は極力行って、皆にも迷惑をかけないように――」

「水戸嶋君」清水に遮られ、玲はびくっと肩を震わせた。清水は淡々と告げる。

「水戸嶋君。きみを担任してまだあまり時間が経ってないけど、一つだけ、君に言うことがある」

 玲は判決の言葉を待つようだった。祈は、このみるからにまともそうな教師からどんな名言が飛びだすのかと期待した。清水が宣告する。

「君は学校に来なくていい。いや、来ないでくれ。君は私のクラスに必要ない」

 玲と祈の、二人の時が止まった。

 遅れて、玲の瞳から涙が流れてくる。すかさず祈がフォローに入る。

「まぁまぁまぁ、玲クン玲クン。大丈夫だって、何か意味があるんだよ、ねぇ、玲くんってば」

「いい」

「でもさ、先生もベテランだし……あ、ねぇ、はは」

 そこにかける言葉はなかった。祈は諦めたように、「また明日も来てね」とだけ背中越しに伝える。もう何も届かないような背中だった。

ことばの説明

パス回し
何人かで、ボールを投げて渡し合う練習。
担任(たんにん)
一つのクラスを受け持ち、そのクラスの生徒を助ける先生。
いじめ
一人や少ない人に、何度もいやなことや苦しいことをすること。
保健室登校(ほけんしつとうこう)
学校へ行き、教室ではなく、保健室で過ごすこと。
判決(はんけつ)
裁判で、裁判官が最後に決めて伝えること。
ベテラン
長い間その仕事をしていて、経験が多い人。

その週の日曜日。

玲は祈から、LINEで「来て」と連絡をもらった。二人はいつもの場所で、ボールを投げ合うことになった。いつも隣で練習しているファルコンズの人たちも、何人か一緒に練習した。玲は初め緊張していた。しかし、最後には笑顔も見せていた。

「ちょっと待っていてね」

祈は、みんながいる場所から離れた。少し遠くのベンチに座り、ずっとこちらを見ていた男の人のほうへ歩いていく。その人は、目があまり見えないくらい深く帽子をかぶり、マスクもしていた。玲は、その姿をどこかで見たことがある気がした。

*

――清水 浩は、自分はよい先生だと、強く思っていた。

大学を卒業してから、ずっと先生の仕事をしてきた。仕事のあと家へ帰ると、その日の授業のよかったところや悪かったところを考え、ノートに書いた。休みの日には、教育についてくわしく書いた本を読んだ。中学生が読むようなマンガや、見るようなアニメも見て、何が人気なのかを勉強した。

清水は、人としてもよい人だった。年を取り、経験が多くなると、みんなが清水を好きになり、信頼するようになった。生徒たちも同じだった。

だから、担任として初めて経験するいじめは、地獄のように暗く、苦しいものだった。

ある生徒の顔は、毎日暗くなっていった。それとは反対に、別の生徒は、普通ではないくらい楽しそうな顔をするようになった。その楽しそうな顔を見るのは、とてもいやだった。清水は初めて、生徒をにくいと思うようになった。

清水は、つらいことに気づいた。

「自分がよい先生でいられたのは、運がよかっただけなのだ」と。

先生たちが強い力を持っていた時代は、長かった。しかし、最近は先生の仕事がどんどん増えている。だれかが先生を殺すために、わざと仕事を増やしているようにも思える。

そして、自分に問いかける。

よい先生のまま、逃げるように仕事をやめるのか。

先生として今まで作ってきた人生を、全部捨てることになっても、この地獄のような苦しさと戦うのか。

清水は、一人の生徒の顔を思い出す。その生徒は、顔や手に毎日のように傷をつくっている。しかし、その理由を話そうとしない。

教室は、もう人が育つ場所ではない。

「それなら、思い切って……」と考えるほど、清水は苦しくなっていた。そんなある日、清水に一本の電話がかかってくる。

*

「先生。玲くんの様子を見て、どう思いましたか?」

清水は帽子とマスクを取った。ベンチから立ち上がり、小さくお辞儀をした。

「先生――」

玲は驚いて、一瞬、息を止める。見られたくなかったのだろうか。手に持っていたラグビーボールを地面に置き、両手を背中のほうで組んだ。

「菊水さん、今日は呼んでくださって、ありがとうございました。玲くんの元気な顔を見ることができて、うれしかったです」

清水はもう一度、髪をとても短くした頭を深く下げる。玲は、恥ずかしくて困っているように、目をそらした。

「玲くん。言いたいことがあるなら、今だよ」

そう言われても、玲の心は不安でいっぱいなのだろう。玲は、助けてほしいというように祈を見る。しかし、祈は清水のほうを向いている。

やがて玲は、なんとか声を出した。何かを吐き出すような声だった。

「あの、学校で、あ、いや、いじめとか、それに近いことが、いや、いじめでは、い、いじめではないんですけど。できれば、できれば、学校に来て保健室で過ごすとか、そういうことができたら、うれしいと――」

玲は、初めに決めていたこととは違うことを言っている。祈は、目で「違うでしょ」と伝える。しかし、玲は止まらずに話し続ける。

「学校へは行かなければいけませんし。先生にも、お、お、お世話になっていますから。できるだけ学校へ行って、みんなに迷惑をかけないように――」

「水戸嶋君」清水は、玲が話している途中で声をかけた。玲はびくっと肩を動かした。清水は、静かに、声の調子を変えずに言う。

「水戸嶋君。君の担任になって、まだあまり時間はたっていない。でも、一つだけ、君に言うことがある」

玲は、自分にどんな判決が出るか待っているようだった。祈には、この先生はきちんとした人に見えた。だから、どんなすばらしい言葉を言うのか、楽しみに待った。清水は、はっきりと言う。

「君は学校に来なくていい。いや、来ないでくれ。君は私のクラスに必要ない」

玲と祈の、二人の時間が止まったようだった。

少しして、玲の目から涙が流れてくる。祈はすぐに、玲を助けようとして話し始める。

「まあ、まあ、まあ、玲くん、玲くん。大丈夫だよ。何か意味があるんだよ。ねえ、玲くん」

「いい」

「でも、先生は長い間この仕事をしているし……あ、ねえ、はは」

何と言えばいいのか、分からなかった。祈はあきらめたように、「また明日も来てね」とだけ、玲の背中に言う。もう何を言っても届かないような背中だった。