玲がいなくなってしまい、祈は清水に怒りを向ける。
「さっきのあれ、どういうこと。あんな言い方したら裏切られたって思うでしょ……そんなことも分かんないの」
清水は歯を食いしばったまま、口を開かない。
「本当に担任なんだよね、そもそもなんで玲がずっといじめられて怪我までしてんのにそのままにしてるわけ。挙句の果てには何もせずに学校から追いだして、それって職務放棄だよ。玲が怯えてたのもそういうこと? 」
清水は責められても、険しい顔を崩さなかった。
「もし玲が一人になったら――」
そこに、清水がついに口を挟む。その声は悲痛に満ちていた。
「一人にはなりません。水戸嶋君は」
「なんで、そう言いきれるの」
「だって」と、清水は鼻をすする。
「あなたが一人にさせないでしょう」
清水はせきを切ったように話しはじめる。
「私はいじめを放置しています。いじめの加害者は私の家を知っていて、いじめに関わってきたら家族を攻撃すると言っています」
祈は言葉を詰まらせる。
「……ほんとなの」
「本当です。今までのクラスでいじめなど一度もありませんでした。初めてです。対応も分からない。事を大きくするなと、上からも釘を刺されています」
「でも、それでもさ、さっきのは」
「あれが、私にできる唯一のことです」
「唯一って」
「菊水さん。今からついて来てください。この後の予定は? 」
「バイトですけど、いいですよ。休むんで」
「今から水戸嶋君の家に行きます」
清水の、これから死にに行く兵士のような雰囲気に、祈は黙って従った。
*
玲の住むアパート。
インターホンを鳴らすと、玲の母、みさとがドアを開ける。彼女は頬がこけていて、目元もどこか暗かった。
「先生……。そちらの女性は? 」
「あ、わたしは玲の友だちです」
「折り入って話がございます。玲君のことです」
みさとは清水の顔つきから何かを察して、「あがってください」とだけ言い背を向けた。
清水はみさとに洗いざらい白状した。自分が無力であったこと、学校の対応が完全に後手に回っていること、玲が笑顔でタグフットボールをしていたこと。
「力になれず、誠に申し訳ございません」
「いや、先生もそういう事情があるとは……そもそも、いつも助けてくださってますし」
清水はなかなか頭を上げなかった。ようやく上げたかと思うと、さっき玲にかけた言葉を、みさとにもそのまま説明する。
「私は、玲君に学校に来るなと、言いました」
「……どうして」
みさとの顔が緊張し、口元が引き締まる。
「彼は三年生で受験期でもあります。勉強ができない子ではない。学校の外に友人もいる」
祈はちいさく頭を下げる。
「この方、菊水さんは、タグフットボールというスポーツのチームを作ろうとしています。
玲君は毎日彼女と練習に励んでいるんです」
清水と祈へ、交互に視線を移動させるみさと。その視線は祈に定まり、訊ねた。
「玲とはどういったキッカケでその、タグフットボールをしてるんですか」
「私が町ゆく人に声をかけてまして、玲はその誘いにのってくれたんです」
追いかけて手首を掴みました、とは口が裂けても言えない。
「なぜそこまでタグフットボールに熱を? 」と聞かれ、祈は途端に胸を張る。
「面白いからです。他のどのスポーツよりも」
母は見定めるように次の言葉を待つ。祈はつづけた。
「タグフットボールは、分かりやすく言うなら、ラグビーからタックルを抜いたスポーツです。誰でも簡単に参加できる。タグフットをやってる人の中には、色んな年齢、経歴の人がいて、男女関係なく戦えます」
「そうですか」
「わたしの目標は玲たちと大会で優勝することです」
祈もわきまえているため、さすがに世界を獲るとは言わなかった。
「できるんですか」
「やってみなくちゃ分からない」
「……はぁ」
みさとは自分の手元を見つめ、しばらく黙った。視線を落としたまま、言う。
「学校に行くか、行かないか。決めるのは玲です。タグフットで優勝っていうその目標を、玲も同じく持ってるとは限りません。
親心としては、もちろん普通に学校に通って、受験勉強して、高校に行ってくれるのがベストなんですけど、それが難しいのも分かってます。現実は見えてるつもりです。
そうですね……最近の玲は顔色がいいです。何か聞いてほしそうにするときもあります」
祈がはにかむ。
「タックルがない、というのは聞いて安心しました。接触のあるスポーツは全部ダメですから」母は深く息をついて、荒れた髪を耳にかけた。
「旦那も通院費のために残業続きです。私たち夫婦の希望は、玲の笑顔なんです」
最後にみさとは言う。
「玲に自分で決めさせます。返事は少し待ってください。それと、菊水さん」
「っす」
「何か身分を証明できるものは? 」
「あ、うーん……」
祈は財布の中やリュックの中を漁ると、思い出したようにスマホから、あるページを開いてみせた。
「私、短距離の選手でした。陸上の」
そう言って、あるニュース記事を二人に見せる。
「ニュースにもなったんですけど……どうですかね」
『全国高等学校総合体育大会、女子百メートル。菊水祈が日本新記録で優勝』という画面は、清水とみさとの疲れた目を、想像以上に丸くさせた。。
玲がいなくなると、祈は清水に怒りを向ける。
「さっきの言葉は、どういうこと? あんな言い方をしたら、玲は先生に裏切られたと思うよ……そんなことも分からないの?」
清水は歯を強くかみしめたまま、何も言わない。
「本当に担任の先生なんだよね。玲はずっといじめられて、けがまでしている。どうして、何もしないの? そのうえ、助けることもしないで学校から追い出すなんて。先生の仕事を、しないということでしょ。玲が怖がっていたのも、そのせいなの?」
清水は責められても、厳しい顔を変えなかった。
「もし、玲が一人になったら――」
そのとき、清水がやっと話し始める。その声からは、とてもつらく、悲しい気持ちが伝わってきた。
「水戸嶋君は、一人にはなりません」
「どうして、そう言えるの?」
「だって」と、清水は鼻をすすった。
「あなたが、一人にはさせないでしょう」
清水は、それまで止めていた気持ちがあふれるように話し始める。
「私は、いじめがあっても何もしていません。いじめをしている生徒は、私の家を知っています。私がいじめに関わったら、家族を攻撃すると言っています」
祈は、言葉が出なくなった。
「……本当なの?」
「本当です。今まで私が担任だったクラスでは、いじめは一度もありませんでした。初めてなので、どうしたらいいか分かりません。私より上の立場の人からも、問題を大きくしないように、強く言われています」
「でも、それでも、さっきの言い方は……」
「あれだけが、私にできることです」
「あれだけ、って……」
「菊水さん。今から一緒に来てください。このあとは、何か予定がありますか?」
「アルバイトです。でも、いいですよ。休みますから」
「今から、水戸嶋君の家へ行きます」
清水は、これから死ぬために戦場へ行く兵士のようだった。祈は何も言わず、清水についていった。
*
玲が住んでいるアパート。
インターホンを鳴らすと、玲の母、みさとがドアを開ける。みさとは、ほおがやせていて、目のあたりも少し暗く見えた。
「先生……。そちらの女の人は?」
「あ、私は玲の友だちです」
「大切な話があります。玲君のことです」
みさとは清水の顔を見て、何か分かったようだった。「中へ入ってください」とだけ言い、背中を向けた。
清水はみさとに、隠していたことを全部話した。自分には何もできなかったこと。学校が問題に気づいて動くのが遅れていること。そして、玲が笑顔でタグフットボールをしていたこと。
「助けることができなくて、本当に申し訳ありません」
「いえ、先生にもそんな事情があったとは……。それに、いつも助けてくださっていますし」
清水は、なかなか頭を上げなかった。やっと頭を上げると、さっき玲に言った言葉を、みさとにもそのまま伝える。
「私は玲君に、『学校に来るな』と言いました」
「……どうしてですか?」
みさとの顔が緊張し、口をきゅっと閉じた。
「玲君は中学三年生で、高校へ入るための試験が近いです。勉強ができない子ではありません。学校の外にも友だちがいます」
祈は、小さく頭を下げる。
「こちらの菊水さんは、タグフットボールというスポーツのチームを作ろうとしています。
玲君は毎日、菊水さんと一生懸命に練習しているんです」
みさとは清水を見て、次に祈を見た。何度か二人を見たあと、祈のほうを向いて聞いた。
「玲と、どんなことがあって、その、タグフットボールを始めたんですか?」
「私が町を歩いている人に声をかけていたんです。玲は、一緒にやろうと言ったら、来てくれました」
「追いかけて、手首をつかみました」とは、絶対に言えない。
「どうして、それほどタグフットボールが好きなんですか?」と聞かれ、祈はすぐに、自信があるように胸を張る。
「おもしろいからです。ほかのどんなスポーツよりも」
母は、祈がどんな人なのかを考えるように、次の言葉を待つ。祈は続けた。
「タグフットボールは、簡単に言うと、ラグビーからタックルをなくしたスポーツです。だれでも簡単に参加できます。いろいろな年齢の人や、いろいろな経験をしてきた人がいます。男でも女でも、一緒に試合ができます」
「そうですか」
「私の目標は、玲たちと大会で一番になることです」
祈も、この場でどこまで話せばいいかは分かっていた。だから、世界一になるとは言わなかった。
「できるんですか?」
「やってみなければ、分かりません」
「……そうですか」
みさとは自分の手を見て、しばらく何も言わなかった。下を向いたまま、話す。
「学校へ行くか、行かないかを決めるのは玲です。タグフットで一番になるという目標を、玲も持っているかどうかは分かりません。
親としては、もちろん、普通に学校へ通い、試験の勉強をして、高校へ行ってほしいです。それが一番いいと思います。でも、それが難しいことも分かっています。今の状況は、見えているつもりです。
そうですね……最近の玲は、顔色がいいです。私に何か聞いてほしそうなときもあります」
祈が、少し恥ずかしそうに笑う。
「タックルがないと聞いて、安心しました。人と体がぶつかるスポーツは、全部だめですから」母は深く息をつき、乱れた髪を耳にかけた。
「夫も、病院へ通うお金のために、毎日のように遅くまで働いています。私たち夫婦にとっての希望は、玲の笑顔なんです」
最後に、みさとは言う。
「玲に、自分で決めさせます。返事は、少し待ってください。それから、菊水さん」
「はい」
「あなたがだれなのか、証明できるものはありますか?」
「あ、ええと……」
祈は財布やリュックの中を探した。そして、何か思い出したように、スマートフォンであるページを開いて見せた。
「私は、陸上競技で短い距離を走る選手でした」
そう言って、二人にあるニュースの記事を見せる。
「ニュースにもなったんですが……これでは、どうでしょうか」
画面には、『全国高等学校総合体育大会、女子百メートル。菊水祈が日本新記録で優勝』と書いてあった。清水とみさとの疲れた目は、祈が思った以上に、驚いて丸くなった。