それが、二人の初めての会話となった。
「タグフットボール興味ない? 」
「タ、タグ、なに? 」
男の子は怖がり、女は自転車をじりじりと後退させて距離を詰める。
「あっ」と女は思った。
当初の予定では、運命を感じた男の子が大人しく話を聞いてくれて、あとは円●守よろしく「タグフットやろうぜ」で話をおさめるつもりでいた。だが。
男の子はみるからに目が泳ぎ、口をわなわなさせ、確実に逃げられるよう距離をとっている。女は直感する。
「(ここで引けば、逆に不審者すぎるな……! )」
むしろ押していくべしと女は迫っていく。
「一緒にやろう! スポーツ! 」
「いや、こ、ここ、怖いです、やめて、やめてください」
男の子はスマホで電話をかけようとしているが、明らかに三桁しか押していない。
「(もう通報⁉ )」
女は咄嗟に自転車をおりて、強引にその子の腕を掴んだ。
「待って! お願いだから話だけ――あれ」
学ランの上からは分からなかったが、腕が異様に細く、女は拍子抜けする。中学生ならもう少し強く抵抗されると思っていた。
「君、もしかして」
「離せっ」
彼は女の手を振りほどき走っていく。女もいくらか迷ってから、ふらふらと左右に揺れるその背中を追いかけた。
――逃げきれないと判断したのか、数十メートル走っただけで彼は諦めた。肩で息をして、リュックを道におろす。その息の切らし方は、ただの運動不足とは違った、病的な不安を思わせるものだった。
「もう……なに……」
「なにって、タグフットボールの話でしょ? 聞いてた? 」
「なんで強気なの……」
女が自転車のカゴからラグビーボールを出し、代わりに彼のリュックをカゴにつめる。
「触ったことある? ラグビーボール」
「小学校のとき、ちょっと」
「それはいいね! 」
女は「ほい」と男の子にパスを出し、彼は慌ててそれを受ける。女が「へいっ」と声をあげて芝の坂をくだっていくので、しぶしぶ彼もついていった。
そうして二人並んでパスを出しあいながら、とぼとぼと公園へ向かう。
「で、名前は? 」
「み、水戸嶋」
「下の名前は? 」
観念したように、ため息まじりで「れい」と答える。
「どんな字ぃ書くの? 」
「王様の王に、命令の令」
「あ、玲瓏の玲だね」
「なにそれ」
「何これめっちゃ綺麗~! って意味の熟語だよ。わたしは菊水 祈。よろしく。部活は? 帰宅部? 」
「見たら分かるでしょ」
「腕細いのは病気とか? 」
「……うん。先天性の――」
「あー言わなくていいよ。気にしないからさ」
「うん」
「ごめんねぇ。でも楽しいよね? パスだけでも、ほら」
祈からパスを受けることにも慣れてきた玲は、「いや、まぁ」と返事を濁す。
「わたし砲丸投げやってる友達いるんだけど、あの子ら変態だよ。めちゃくちゃ重たい鉄をどこまで遠くに投げるかで死ぬまで競ってんだよ。ヤバくない? 世界で一番遠くに投げれば豪邸に住める」
彼女は、玲が「なんの話」と、少し笑ったのをみてつづける。
「まぁ、スポーツなんて全部変だけどさ。わたしなんて、小学生の頃から高校卒業するまで、十二年も百メートル走してた。かけっこの楽しさが抜けなくて。皆が勉強とか、恋愛とか、大人になっていく横でさ。わたしが大人になったのはタイムとおっぱいだけ――」
「え、いま何歳」
「何歳にみえる? 」
「高校生かと思った」
「ぶぶー。二十三」
「あぁ、へぇ、若い」
「気ぃつかわせてごめんって。それでさ、わたしが今やろうとしてるスポーツもね、知らない人からすればけっこう馬鹿らしいかも」
「ラグビー? 」
「さっきから言ってるけど、ラグビーとは違うんだな、これが」
彼女は自分のリュックから、二本の、リボンのような細長い布きれを取り出す。
「これはタグって言ってね。わたしがやりたいのはタグフットボールっていうの」
「あ……見たことある」
「玲クンでもできるよ」
玲は「む」と顔をしかめる。
「はは、おこらないの。わたし、このタグフットボールで世界獲ろうと思ってんだよね」
玲は理解できない様子で、祈の顔をまじまじとみつめる。
「理解できないでしょ。誰より稼いだ、誰より勝った、勝たせた、得点した、防いだ、抜かした……そういう数字で比べられるようなものじゃない、もっと大きな、本当の栄光がこのスポーツにはある気がしててね」
玲にはあまりピンとこないが、哲学はあまり嫌いではなかった。
「タグって奥ふっかいよ。玲クンも今にわかる。わたしがわからせる」
玲は狐につままれたような感覚のまま公園に着いた。
やさしい日本語
これが、二人の初めての会話になった。
「タグフットボールに興味はない?」
「タ、タグ、何?」
男の子はこわがった。女は自転車を少しずつ後ろへ動かしながら、男の子との距離を近くした。
「あっ」と女は思った。
女は最初、こう考えていた。男の子は二人の出会いを運命だと思い、おとなしく話を聞くだろう。そして、アニメの主人公のように「タグフットをやろう」と言えば、話はうまく終わるはずだった。しかし、実際はちがった。
男の子は目をあちこちに動かし、口をふるわせていた。いつでも逃げられるように、女から離れている。女はすぐに思った。
「ここで私が帰ったら、もっと怪しい人に見える……!」
だから、もっと強く話そうと考え、女は男の子に近づいた。
「一緒にやろう! スポーツ!」
「いや、こ、こわいです。やめて、やめてください」
男の子はスマートフォンで電話をかけようとした。しかし、押した数字は三つだけだった。
「もう警察に電話するの⁉」
女はすぐに自転車から降り、男の子の腕を強くつかんだ。
「待って! お願いだから、話だけでも――あれ」
学校の制服の上からは分からなかったが、男の子の腕はとても細かった。女は驚いた。中学生なら、もっと強い力で逃げようとすると思っていた。
「君、もしかして」
「離せっ」
男の子は女の手を振りはらい、走って逃げた。女は少し迷ったあと、左右にふらふら動く彼の背中を追いかけた。
男の子は逃げられないと思ったのだろう。数十メートル走っただけで、逃げるのをやめた。肩を大きく動かして息をし、リュックを道に置いた。その苦しそうな呼吸は、運動をしていない人のものとはちがった。病気なのではないかと心配になる呼吸だった。
「もう……何なの……」
「何って、タグフットボールの話でしょ? 聞いてた?」
「どうして、そんなに自信があるの……」
女は自転車のかごからラグビーボールを出した。そして、代わりに男の子のリュックをかごに入れた。
「ラグビーボールに触ったことはある?」
「小学校のときに、少し」
「それはいいね!」
女は「ほい」と言って、男の子にボールを投げた。男の子は急いで受け取った。女が「へいっ」と声を出し、芝生の坂を下りていったので、男の子もしかたなくついていった。
二人は並んで歩き、ボールを投げ合いながら、ゆっくり公園へ向かった。
「それで、名前は?」
「み、水戸嶋」
「下の名前は?」
男の子はもう逃げるのをあきらめたように、ため息をつきながら「れい」と答えた。
「どんな漢字を書くの?」
「王様の『王』に、命令の『令』」
「あ、玲瓏の『玲』だね」
「何、それ」
「『とてもきれい』という意味のことばだよ。わたしは菊水祈。よろしく。部活動は? 何もしていないの?」
「見たら分かるでしょ」
「腕が細いのは、病気だから?」
「……うん。生まれたときからの――」
「ああ、言わなくてもいいよ。わたしは気にしないから」
「うん」
「ごめんね。でも、楽しいよね? ボールを投げ合うだけでも。ほら」
祈から来るボールを受け取ることに慣れてきた玲は、「いや、まあ」と、はっきりしない返事をした。
「わたしには、砲丸投げをしている友だちがいるの。あの人たちは変わっているよ。とても重い鉄の球を、どこまで遠くへ投げられるか、一生競争するんだ。すごいでしょ? 世界で一番遠くへ投げたら、大きな家に住める」
玲が「何の話?」と言って少し笑ったので、祈は話を続けた。
「まあ、スポーツは全部変だけどね。わたしは小学校から高校を卒業するまで、十二年間も百メートルを走っていた。走って競争する楽しさを忘れられなかった。みんなが勉強や恋愛をして大人になっていく間に、わたしが大人になったのは、走る時間の記録と胸だけ――」
「えっ、今、何歳?」
「何歳に見える?」
「高校生だと思った」
「残念。二十三歳」
「ああ、そう。若い」
「無理にやさしく言わなくてもいいよ。それでね、わたしが今から始めようとしているスポーツも、知らない人には、かなり変に見えるかもしれない」
「ラグビー?」
「さっきから言っているけど、ラグビーとはちがうんだよ」
祈は自分のリュックから、リボンのように細長い布を二本取り出した。
「これは『タグ』というの。わたしがやりたいのは、タグフットボール」
「あ……見たことがある」
「玲くんもできるよ」
玲は少し怒って、顔をしかめた。
「はは、怒らないで。わたしは、このタグフットボールで世界一になろうと思っているんだ」
玲は意味が分からないようで、祈の顔をじっと見た。
「分からないでしょ。だれよりお金をかせいだ、勝った、チームを勝たせた、点を取った、相手を止めた、追い越した……。そんな数字で比べるものではない、もっと大きくて、本当のすばらしさが、このスポーツにはあると思うんだ」
玲には、まだよく分からなかった。しかし、物事について深く考えることは、きらいではなかった。
「タグは、とても深いんだよ。玲くんも、いつか分かる。わたしが分からせる」
玲は何が起きているのか、よく分からないまま公園に着いた。